決断とは 手放しとは

最近、わたしにとっては大きい決断をしました。

これまでしてきたあることを止める、という決断です。

多分ある人からしたら、どうってことないことです。

わたしもそう思ってました。

大したことではない。

でもそれがなかなか出来なかった。止めることが出来なかったんですね。なので余計になんで?と自分を責めて、更にストレス、悪循環でした。

自分のことだけでなく、周囲も関わってくること。

わたしの本心は止めたい!けど周囲のことを考えると。

これまで自分を優先してこなかったわけですから、自分優先の行為は恐れを感じるのかもしれません。

続けていれば、一般的には献身的でいい人に見られます。

実際は見られる、のではなく、あくまでわたしがそうだろうと思っている、だけのことです。

単なるわたしの価値観にしか過ぎません。

一般的という定義も次第に薄まってきました。これからもっと薄くなってくるでしょう。

一般常識なんてものが通用しない世の中になってきます。

最初からそんなものなかったのです。誰が作った常識なのか。というか常識ってなに?

そういったものがあるとするなら、それは各々が人生を通して試行錯誤しながらつくっていく独自のもの。

一般常識というある種基準を与えられ、それをもとに知らず知らずのうちに自分が作ってきた価値観。

こうすればこう見られるだろう、こう言えばこう思われるだろう。

いちいち答え合わせする。全部自分一人でやってます。既に習慣化されてます。

前置き長くなりましたが、決断とは。

イコール行動です。止める、という決断をしたなら本当に止めた時が決断です。

やるという決断をしたなら、実際にそれをやった時が決断です。

わざわざ決断しないといけない、決断、という言葉が出てきたなら、そこに大きなブロック、心の引っ掛かり、があるということにまず気付きましょう。

逆に言えば、シンプルに行動出来ることはわざわざ決断なんてしないということです。

で。そのブロックは結局、自分の価値観、思い込みです。

多分大抵、人からの評価であったり、一般常識といわれるものなんじゃないかなと。

そこに気付いたら、決断 → 手放し です。

手放し → 決断 なのかな。

どちらでもいいのですがこれはセットのような気がします。

決断しても手放ししても、そこに滞っていたものがどっと流れ出すわけですから、当然日常にも変化が起こってきます。